禅の教えでは「掃除」も修行。毎朝 完璧に履き清められた境内はチリひとつ落ちておらず、凛とした空気が漂い 樹々の香りが感じられる清々しい風が吹いていました。
ここは 俵屋宗達の「風神雷神図屏風」を所蔵しているお寺として知られています。ただ 所蔵はしているものの、実物は保存の為に 京都国立博物館に寄託されていて、実際に行っても見ることはできません。が、その代わりにキャノンが最新のデジタル撮影と高精度のカラーマッチングを行って複製した高精細の複製品が寺内で常時公開されています。
でも、やはり本物を見てみたい…
京都国立博物館内には保管されているものの、常設展示どころか滅多に見られるものではなく 京都にいても本物を見ることは叶いませんでした…
ところが、なんと 東京で見ることが出来ようとは!
現在、上野の「東京国立博物館」で開催されている 栄西禅師 800年遠忌 特別展「栄西と建仁寺」で、本物の「風神雷神図屏風」に出会うことができたんです!
近くでまじまじと見ると、雷神の表情や筋肉に沿って、胡粉( 貝の殻を細かく砕いて作られた白色の顔料 )が塗ってあり、見る角度によって微妙に輝き、立体感と共に 動きが感じられます。
雷神に髪の毛は強くて固そう。筆跡が勢いよく、全てが逆立っていて、いかに激しく動いているか想像できます。
対して風神の髪の毛は風を孕んで少し細く柔らかそう。身体はちょっと抑えた色味で、画面から飛び出してくる勢いの雷神から少し奥に存在し、やんちゃな雷神に合わせて背後から風をコントロールしている感があります。
そして、余白に張り巡らされた金箔が、光の当たり具合によって濃淡が出るためか、無限の宇宙の彼方へ誘うがごとき奥行きを想像させます。
なんという立体感と躍動感!
ただ、「屏風」は本来、障子越しの柔らかな光で鑑賞するものなのだそうです。
障子を通って射す早朝の薄明りから、夕日が沈んだ後の名残りの赤い光…刻々と移り変わる 自然と時間が織りなす天然の照明をうっすら遮る障子…そこを通った光がこの屏風に当たり、表情がどんどん変わって行く姿を是非見てみたい…
夜、一本の蝋燭の火がゆらゆら揺れて、その光を受け止める姿を見てみたい…
一本の蝋燭では光が射す範囲も限られているでしょう…照らされた金箔は煌煌と輝き、光が届かない部分は きっと真っ暗…大きな対比だからこそ、闇は深く 底なしの宇宙。
昼間は何処と無くユーモアを漂わせていたものの、揺れる蝋燭に限定的に照らされた雷神は 胡粉が作る煌きと共に 誘うような表情を浮かべ、ひょっとしたら 拐われてしまうかも…と、 何とも言えない恐怖感を感じさせる…風神は表に出ずに闇の中から風を起こし、暗い場所に連れて行く…
残念ながら 「国宝」なので、保管が厳しく、「硝子ケース越し」かつ「展示用の照明」の下での鑑賞だったので、そんな世界を想像するしかないのですが…
凄まじく想像力を掻き立てられるこの絵は、後に尾形光琳が模写し、その光琳の模写を江戸琳派の創始者、酒井抱一が模写し…というように後世の偉大な画家達にも連鎖的に大きな影響を与えているようです。
栄西と建仁寺ゆかりの国宝4件、重要文化財38件を含む、計183件を展示中のこの特別展!
あおいみみずくは およそ3時間かけて見て回りましたが、今回はなんと、同じく建仁寺所蔵、京都国立博物館に寄託されている、北方友松の「雲龍図」の襖絵( 阿吽の龍 )も同時に展示されていたのですよ!これまた大迫力!
あ、でも"阿と吽 二匹の龍 "が揃って見られるのは5/6までです。
それ以降は一匹いなくなっちゃうみたいなので、要注意!
もちろん二匹とも しっかり見て来た あおいみみずく。で、とても書ききれないので次回に続く〜*\(^o^)/*
2 件のコメント:
「屏風は本来障子越しの柔らかな光で鑑賞するもの」
私もあおいみみずくさんと同じ思いをしたことがあります。
私の場合は襖絵ですけれど、
唐招提寺の東山魁夷さんの襖絵を展覧会で見た時と 納まるべきところに納まっているのを見た時と、同じ物なのに一瞬 別物かと感じたことを思い出しました
エーデルワイスさん、コメントありがとうございます!
やはり天井画、襖絵、屏風絵など、あるべき場所にあって、気持ちの作用・光の作用などが揃ってこそ という気がします。
もちろん、製作者の意図とは全く違った場所や使用法で、思いもかけなかった輝きを発する場合も多々ありますが。
ただ、製作者の意図した事が なんとなく…勝手にわかった気がするだけかもしれませんが…自分に通じたかも…って思った瞬間 とても嬉しく感じます。
そういう意味でも、「自然」ももちろん大好きですが、人の手による「モノ」に素晴らしく魅力を感じる今日この頃です。
コメントを投稿