2014年1月27日月曜日

もやしやさん…?

あおいみみずくが京都滞在中にすみかとしておりましたのは、「五条坂」という所です。
五条坂のバス停から東に坂を登って行くと 約10分ほどで清水寺。ここは清水寺や高台寺に向かう玄関口という事で、いつも東に向かう多くの人で 溢れています。
で、西に行く人は皆無。それこそ「シーン…」ま、生活の場であるから当たり前か…(^^;; 
西の裏路地には、あおいみみずくがいつも行くスーパーマーケット「ハッピー六原」と お肉屋さんがあり、そこに繋がる細い道は それこそ何度通ったかわかりません。
そんな通りの一つ「松原通」沿いに、いかにも古そうなただずまいをみせる一件のお店。掲げられた看板には「もやし」の文字が…
もやしやさん?もやしって、あの一袋50円以内で買える、庶民の味方の「もやし」でしょうか…?でも、それを専門に扱って 商売成り立っているのかしら…?もやしの老舗…?
不思議な事はもう一つ。お店の前に貼り出された、「あま酒 あります」の文字。
??もやしだけではやって行けないので あま酒も扱っている…?しかし なぜあま酒…?
いつもそこのお店の前を通りかかる度に、??の状態でした。
ところがある日、ふと目にしたNHKの番組に、あのもやしやさんが映っているではありませんか!あらー?ってことで、謎は解けました。
なんと そこは「麹屋さん」だったんです。


お醤油や味醂、お味噌、日本酒など、日本食に絶対欠かせないカビの一種、いわゆる「麹菌」
「アスペルギルス・オリゼ」
今から千年ほど前、日本人は 自然界に漂う何億種類のカビの中から オリゼ菌を抽出する方法を世界で初めて編み出しました。この菌は 現在、世界中で日本にしか存在しません。
鎌倉時代には、蒸し米の上でカビを育て どこにでも運べる「カビの種」を作る種麹屋(たねこうじや)が現れました。その後 全国に広まったものの、現在でもそれを扱っているお店は ほんの僅か。京都ではただ一軒だそうです。
「オリゼ菌」は、カビの一種ではありますが、これによって でんぷんが糖質に変化するそうで、その糖質は あらゆる「うまみ」のベースになっています。
外国にも同じような菌はありますが、自分の身を守る為に毒素を出すそうです。しかし、このオリゼと呼ばれる菌は 毒の遺伝子が すっぽりと抜け落ちている、いわば日本人によって飼いならされた 忠実な菌。
この菌が無いと日本料理は成り立たない という「ユネスコ無形文化遺産 和食」の真髄!
ただ「オリゼ菌」は、ほっておくと代を重ねるに従って老化し、でんぷんを糖質に変える機能が衰えて行くらしく、常に大切に世話をし 守っていなければならないようです。この菌が日本から失われたら、それこそ取り返しがつきません。
実はこの謎のお店は、その重要なミッションを背負っている 私達の生活には絶対に欠かせないお店だったという訳です。
オリゼ菌が萌え生ずる…で、もやし。なるほど〜!
謎が解けた後は あおいみみずく、このもやしやさんで、早速 あま酒を買いました\(^o^)/

2014年1月22日水曜日

足利義満〜夢のお告げの鹿王院

1月もあっと言う間に終盤。ブログを更新するペースがゆっくりなので、お伝えしたい事が溜まってしまって…
今回の記事は、初夢にひっかけて書いていたはずでしたが、すっかり時期を逸してしまいました。
…と、いうわけで、時期が後先になっておりますが、そこはご容赦くださいませf^_^;
さて、今回のお話。
「室町幕府三代将軍 足利義満ゆかりのお寺」と聞いて、まず最初に思い浮かぶのは「金閣寺」だと思います。
正式名称は「鹿苑寺」(ろくおんじ)
鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。義満の死後 遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山(初代住職)とし、義満の法号 鹿苑院殿 から二字をとって「鹿苑寺」と名づけられました。
本当に金色に光輝く舎利殿。いつ見ても 深いこと考えずに ただただ驚いてしまいます。
1950年に放火により焼失し、現在の建物は、1955年に再建されたものです。
沢山の修学旅行生に混じって 頑張って写真を撮りました。
どの角度から撮っても 本当に絵になりますよね^ ^
雪でもうっすらと屋根に乗ってくれたらなぁ…


そして こちらは「鹿王院」(ろくおういん)
同じく足利義満ゆかりのお寺で、応仁の乱で焼失した「宝幢寺」という寺の唯一残った塔頭です。
舎利殿の姿も金閣寺に似ていて なかなか雰囲気がありますし、歴史を感じさせる ただずまいなのですが、こちらはあまり訪れる人もなく、ひっそりとしています。



宝鐘寺は 1379年 22歳の足利義満が、夢の中で多聞天と地蔵菩薩が、
「今の将軍は福も官位も十分に満ち足りている。ここで一カ寺を建立すれば、寿命をのばすこと間違いない」
と語り合うのを聞き、最も帰依していた夢窓国師の後継者だった春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を開山として、自らの延命を祈願して建立した禅寺です。
夢のお告げを さっと現実にできちゃう権力って…f^_^;
でも、こういった権力が、後の世の文化を生んでいる…そして 現在生きる我々が享受できている…今の世と照らし合わせてみて、ちょっと複雑な思いもします。
鹿王院は、春屋の塔所(はかどころ)として、宝鐘寺内に建立されました。
応仁の乱で焼失 廃絶後 再興され、本堂は1676年、舎利殿は1763年に建立され、総門に至っては、宝幢寺建立の康暦2年(1380)まで遡る可能性が指摘されるほど歴史を積み重ねて来た 臨済宗の寺院です。
義満の自筆「覚雄山」の扁額が掲げられた山門をくぐると、石畳が真っ直ぐ伸びていて、紅葉のトンネルが続きます。両脇には青々とした苔。街中に居るとは思えない、静寂な雰囲気に包まれています。
トンネルを抜けると「客殿」 そこにも同じく義満自筆の「鹿王院」の額が掲げられ、義満の思い入れの深さが感じられます。
客殿の廊下に座って本庭を望めば、歴史を感じさせるただずまいの舎利殿。そして背後に嵐山。これぞ借景の妙。人の手で造られた庭園と 雄大な自然の一体感に、暫し見惚れておりました。成る程、心穏やかになり、延命はともかく ストレスを置いて行けそう。
本堂には、釈迦如来坐像(運慶作)や、足利義満の像。義満の像は、歴史の教科書で見た事があるような…かなり見どころ満載でしょ^o^
京福電鉄嵐山線 いわゆる「嵐電」の「鹿王院」駅から「嵐山」駅まで二駅。嵐山に向かう人は多いのですが、鹿王院は素通り。これはとっても勿体無いと思います。
夢のお告げの鹿王院。是非 不思議な力を感じに行ってみてくださいね。


それにしても、ブログを書いていると、「応仁の乱で焼失」という文字を使う事が多いこと!応仁の乱がどれほど凄まじいものであったか、本当に思い知らされます。

2014年1月18日土曜日

心の琴線〜ウードの響き

「ウード」という楽器を知ってますか?
アラブ音楽の中心となり、現在でもアラブ諸国やトルコなど、広い地域で奏でられている弦楽器です。西欧のリュートの祖先とも言われたり、東方においてはシルクロードを介し、琵琶とも関係が深いとも言われています。(実際に見た目は琵琶にそっくりでした。)
また、旧約聖書に登場するレメクが息子の死を悼み、その亡骸が骨になった姿からウードを考案したという説もあり、ウードという楽器が古くから いかに時を超え愛されてきたのか…本当に楽器の祖先とも言えるものです。
あおいみみずくは 秋の夜 (もう2ヶ月前になるんですね…ついこの間みたいな気がします…)、京都 大原の「宝泉院」という小さな寺院で、この 古から続く、心の響きを持つ楽器「ウード」の調べを聴く機会に恵まれました。
演奏してくだざったのは、常味裕司さんという、日本におけるウードの第一人者です。チュニジアで勉強され アラブ音楽の神髄を持ち帰り、様々な場面で演奏されています。NHK「新シルクロード」の音楽の監修・演奏や、最近では「龍馬伝」などの挿入音楽も演奏されているんですよ。
会場となった宝泉院は、平安時代より声明の聖地、勝林院の住職の坊(宿舎)としての歴史を持っています。
客殿から見渡す庭は柱と柱の空間を額縁に見たてて鑑賞するもので、竹林と大原の里の なんとも言えない静かな風景は、いつまでも立ち去り難く、竹のさわさわいう音を聞くと、心が無限の宇宙に漂っている感覚を覚えます。


秋の 少し肌寒い風が吹く とても静かな夜、客殿で催されたウードの小さなコンサート。
日本音楽のルーツと言われる声明発祥の地で、アラブ音楽の心、ウードの生命力溢れる響きが風に乗って漂います。時折、強い風が吹き、竹の葉がそよぐ音が大きくなります。
ふと見ると、ゆらゆら揺れる竹の隣で 樹齢700年と言われる「五葉松」の古木が堂々たる木肌を見せて 光の中、輝いています。
静寂・瞑想・祈り…その場所は、多種多様なエネルギーが塊になっていました。心の深い所に沁み渡る本当に至福の時間。
たった一日の小さな演奏会。この時間に巡り合った幸せに感謝しかありません。

2014年1月14日火曜日

藤森神社で招福を祈る

さて、元日に白峯神宮にご挨拶をした 訳ですが、やっぱり招福も祈らなければなりません。
候補は様々ありましたが、干支を祀った社寺院にお参りをしよう!今年は午年!
ということで 伏見は深草にある「藤森神社(ふじのもり)」に決めました。
ここは、平安遷都以前に創建されたと伝えられる長い歴史を誇る神社です。
203年に新羅より凱旋した神功皇后が、戦勝を祝し この地に塚を造り 兵器を納めて大旗を建てた事が、こちらの起源とか。
御祀神は 素盞鳴命(すさのう)・日本武尊(やまとたける)・仁徳天皇(にんとく)・神功皇后(じんぐう)・舎人親王(とねり)・早良親王(さわら)など、全て合わせて十二柱。
日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王を御祭神としてお祀りしていることから、学問の神としても信仰されています。
また、毎年5月5日にこちらで行われる「藤森祭」は菖蒲の節句発祥のお祭り と言われていて、各家々に飾られる武者人形には「藤森の神が宿る」とされているんです。
菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じるので、藤森神社は「勝運を呼ぶ神」!
ということで、こちらの金太郎さんは、兜をかぶっております。
何と言うか…手強そう〜 (⌒-⌒; )


さて、藤森祭の折、奉納される神事が駈馬神事。
元々はこの神社にも祀られている早良親王が、陸奥の反乱征討に赴く様子を模したものでしたが、馬術の技を競い合うものになり、現在では手綱から手を離して後ろ向きに乗ってみたり、馬に乗ったまま文字を書いてみたり、馬上で逆立ちしてみたり…スリル満点の曲芸のようになっているそうで、京都市の無形民俗文化財に指定されているようです。(これは是非とも見てみたい!)
この「馬による神事」が行われる事から「馬の神様」として信仰され、さらにこちらには「勝ち運の神様」が祀られているということとから、いつしか「競馬の神様」と言われるようになった藤森神社。( 因みに あおいみみずく、競馬場に足を踏み入れた事は未だかつて無いのですが…(⌒-⌒; )
初詣に際し 参道の両側に飾られた「招福 馬」と「勝運 左馬」の大きな板。
右側には招福「馬」文字。
左には勝運「左馬」文字。
左馬とは、藤森神社の解説書によると、
・1 左馬は招福のシンボルで、馬の字が逆に書かれていることから、ウマの逆はマウ(舞う)であり、古来、舞はめでたい席で催されることから、縁起の良い「招福」という意味である。
・2 馬の左下の部分が財布の巾着の形をしていて、口がよく締まって、入ったお金が散逸しないことから、富のシンボルである。
・3 馬は人がひいていくものだが、その馬が逆になっているため、普通とは逆に馬が人をひいてくる(=招き入れる)ということから商売繁盛に繋がる。
・4 馬は元来左から乗るものであるということから、左馬は乗馬をシンボルするもので、これを持つ者は競馬に強い
…という事で、左馬はこちら…


「勝負に勝つ!」ということで、こちらの狛犬は勇猛果敢!


今にも飛びかからんとする様子です。
躍動感に溢れ、かっこいい!


お参りは万全!
あとは自分の頑張り次第ですね…(^◇^;)

2014年1月10日金曜日

元旦は白峯神宮にご挨拶 と熊が言う

さて、「新年を迎え 最初の日、何処に詣でるか」
ここは京都ですから、あおいみみずく的には色々と候補があった訳です。
大晦日に断念した 八坂神社?京都の初詣で最高の人出がある 伏見稲荷大社?学問の神様 北野天満宮?今年は馬年!競馬の神様 藤森神社?上賀茂神社で神馬を拝む…?う〜む…
で、いつもお腹をすかせた熊に相談した訳ですよ。そしたら
「白峯神宮!」( ̄(工) ̄)    即答!
白峯神宮ってご存知ですか?
こちらの地主社に祭祀されている「精大明神」は 蹴鞠上達の神様で、2002年に日韓共催ワールドカップサッカーが行われた際、日本代表の選手達が必勝祈願に訪れた事で有名になりました。
現在は「スポーツの神様」として、あらゆるスポーツに励む人達にご利益がある神社です。
スポーツの神様に 今年最初のご挨拶?…いえいえ それだけではないのです。


ここ 白峯神宮の御神祭は、淳仁 (じゅんにん) 天皇と 崇徳 (すとく) 天皇です。
淳仁天皇は『日本書紀』編纂の 舎人(とねり)親王の王子として誕生し、47代の天皇に即位しました。しかし、弓削道鏡らの謀計によって 藤原仲麻呂の乱を契機に廃位となり 淡路島に流され、失意のうちに33歳の若さで 同島にて亡くなりました。(その後、道鏡は和気清麿によって 討たれます)
一方、崇徳天皇は 鳥羽天皇の皇子として誕生し、75代天皇に即位するものの、すぐ、何故か3歳の近衛天皇に譲位。その後、同母弟 ( 実は父親が違うのかも…?ここに問題があって、崇徳天皇は、父 鳥羽天皇に疎まれた…とも言われているんです…) の後白河天皇に帝位を奪われます。
これに立腹し、1156年に保元の乱を起こしますが 敗れ、讃岐国 白峰に流されました。
「保元物語」によると、讃岐での軟禁生活中 仏教に深く傾倒した崇徳院は、極楽往生を願い 経典の写本作りに専念し、「戦死者の供養と謀反の反省の証として 完成した写本を京の寺に収めてほしい」と朝廷に差し出しましたが、後白河院にこれを拒否され 写本を送り返されました。
この仕打ちに激しく怒った崇徳院は 舌を噛み切り、その血で 写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と書き込み、爪や髪を伸ばし続け、夜叉のような姿になり、生きながら天狗になった とされています。
京に帰還すること叶わず、讃岐国で1164年8月に45歳で亡くなった後、その地の白峯山陵に葬られましたが「御霊」となって その後次々と 自分を陥れた人々を祟り 苦しめたことによって「日本最強の怨霊」と言われ、長きに渡って恐れられています。
白峯神宮は 幕末に、孝明天皇が崇徳上皇の霊を慰めるため その神霊を京都に移すよう幕府に命じたものの、間もなく崩御。その子 明治天皇が1868年、自らの即位の礼の際に勅使を讃岐につかわして 崇徳院の御霊を京都へ帰還させ、現在地に社殿を造営し「白峯宮」を創建したのが始まりです。
その後、淳仁天皇の神霊を明治6年に淡路からお迎えし、昭和15年に 神宮号の宣下をうけ現在に至っています。
因みに昭和天皇は、崇徳天皇八百年祭に当たる1964年に、現在 香川県坂出市にある 崇徳天皇陵に勅使を遣わして 式年祭を執り行わせています。天皇家はこの御霊にかなり気を遣っているんです。
…でも、この神宮の狛犬はちょっとかわいい…^ ^


…と、まあ こういった事をふまえ、我々は 京から離れた地で非業の死を遂げた二人の天皇に、
「短い間ではありますが、京都で生活させていただいております。ありがとうございます。」
との感謝の気持ちを込めて ご挨拶に伺ったという次第。
因みに 祇園 歌舞練場の側には 白峯神宮管轄の「崇徳天皇御廟」があり、そこは、生前 崇徳院の寵愛を受けた 阿波内侍が、院を偲ぶために自邸内に建てた御影堂があった場所である と伝えられています。
我が家のすぐそばにある 小さな御廟。熊もみみずくも、そこの前を通りかかると必ず「どうぞ安らかに…」と、お参りをしているんですよ(^ ^)
最後に、小さな頃から 和歌や管弦に優れていたという 崇徳天皇の歌を一首
  〜 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 〜
「引き裂かれても、いつか必ず また逢える」という恋愛の歌ですが、もっと深い意味があるような気もします…

2014年1月6日月曜日

明けましておめでとうございます(追記あり)

明けましておめでとうございます *\(^o^)/*
あっという間にもう新年6日です。年明けってどうしてこんなに時間が経つのが速いんでしょうか…?
毎年、一年が過ぎるのが加速度的に速くなっていくのを感じますが、年明けって特に速い (^_^;)
何にもしないで食っちゃ寝してるからでしょうかね…
ホント 充実した毎日を送らないと、あっという間に月日はどんどん経ってしまいます。
基本的にぼ〜っとしているのが好きなあおいみみずくですが、今年は例年より10%増しくらいに頑張ろうと思います!


さて、今回の年末から年明けにかけて京都で過ごした、いつもお腹を空かせた熊と あおいみみずくコンビ。大晦日の夜は、近所の「智積院」で除夜の鐘をついたり 知恩院や八坂神社の裏手あたりを練り歩いたりして楽しみましたが、なんと言っても人の多さよ…(; ̄O ̄)
八坂神社では大晦日から新年にかけて、「をけら詣り」という行事が行われています。
神社境内にある「をけら燈籠」に灯された火を「吉兆縄」という竹の繊維で編んだ縄の先に移し 家に持って帰り、神前の灯明や 正月のお雑煮を炊くときの火種として使うと 火災にならず、健康に年を送れる…という、昔からの風習のようです。縄の先についた火が消えない様にという事でしょうか、皆さん 縄をクルクル振り回しながら道路を歩いていらっしゃいました。
これは観光イベントなどではなく、古からの風習なんでしょう。あおいみみずくの感覚だと、それこそ京都中の方々が一斉に八坂神社にいらっしゃる感じで、まあ大変な人出!神社の周りの道路は何台もパトカーが出て、完全に自動車を封鎖。人も迂回。我々はというと…八坂神社に押し寄せる人々に圧倒され、人波を遠目に見ながら すごすご退散いたしました (^_^;) 
いいんだ…除夜の鐘はつけたから…と、おうちに帰って日本酒で乾杯〜 ♡
…こんな感じで、イマイチ迫力不足…とほほ…な二人…いえ、一羽と一頭ではございますが、皆様と今年も楽しく過ごしたく。本年もどうぞよろしくお願い致します*\(^o^)/*


追記
「をけら」というのは、漢方薬にも使われるキク科の植物で、燃やすと強い香りが立つそうです。
その香りによって、邪鬼が退散すると言われているようです。
をけら燈籠には、この をけら と、願い事書いた護摩木が一緒に焚かれています。
二枚目の写真は 祇園にある鯖寿司の名店「いづう」で撮ったものです。
種火で先端が少し焦げた「吉兆縄」がご覧頂けます。