2014年11月26日水曜日

応仁の乱と銀閣寺

京都の話が出たついでに 気になる事を一つ…
京都について 色々調べていると「応仁の乱で焼失」という言葉が頻繁に出て来るんですよね…
京都の街は焼け野原になり 大報恩寺(千本釈迦堂)ただ一つが ぽつーんと残ったとか…
もしも「応仁の乱」が起こらなかったら、京都の街は 今とは大きく違った形だったのでしょうね。ま、こればかりはわかりませんが…
そもそも応仁の乱って何でしょう?
簡単に言えば、室町時代に勃発した「足利義政の後、誰かが将軍になるか」といった跡目争いに 管領家の相続争いが絡み、その配下にある全国の武士までをも巻き込んで11年に渡ってだらだらと続いた 京都を戦場とした戦いです。
時の将軍「足利義政」と言えば、銀閣寺を建立した将軍で、文化芸術に大変傾倒し、東山文化を形成するなど、日本の文化発展に多くの功績があります…が、一方では文化に傾倒するあまり、政治をないがしろにし、京都を戦火に巻き込んだきっかけとなった人物です。
応仁の乱の発端たる人物ではあれど、素晴らしい文化を育んだ功罪併せ持つ足利義政…
9歳にして家督を、15歳にして将軍職を継いだ義政は、応仁の乱の後、弟 義視が住し 戦乱で焼けたままになっていた浄土寺跡地に 自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる「簡素枯淡の美」を映す 一大山荘を作りあげました。
義政自身は完成まで あと3ヶ月という時に亡くなったのですが、彼が生涯をかけて 思いのままに仕上げていった東山山荘(東山慈照寺)は 江戸時代に「銀閣」と称せられ、現在に至ります。
また、ここの庭園は 義政の築造庭園の中でも現在残っている唯一の遺構です。


彼は、代々の足利将軍家が対明貿易によって集めた多くの名画や名器、墨蹟などを能阿弥とその子芸阿弥に命じて選定を試みました。また同時に、東山時代に「書院造り」の建物が成立するに伴い「書院飾り」の法式も能阿弥に命じて作らせました。(書院飾りは、後に相阿弥にいたって完成されます…)
ときに 能阿弥は、茶の湯の作法を村田珠光について学び、その珠光を義政に推奨したのですが、ドナルド・キーン著「足利義政」には
「義政は単なる気晴らしに過ぎなかったものに、将軍家のお墨付きを与え、儀式化された茶道へと発展させる道を開いたのだった。」
と 茶の湯に関する記述があり、義政は茶道にも大変な影響を与えた人物とも言えるようです。
応仁の乱でこれほどまでに京都を焼け野原にした挙句、のほほんと自分の思いのままに美を追求する…良くも悪くもぶっ飛んだ人物…歴史における この人の存在というのは、いったい何なのでしょうね…
後世の私たちは、残された東山慈照寺、通称銀閣寺を眺めながら、その歴史に思いを巡らすしかありません。


きっと今頃の京都は紅葉が最高潮でしょうね…

2014年11月17日月曜日

京都の美味しい思い出〜いもぼう

この秋は、立山黒部で地球規模の大自然を味わうことが出来たあおいみみずく。今でも心に残る あの大迫力…人って 本当に恵まれているなぁ…
「自然からの恩恵」って言葉をいつも軽く使うけれど、なんと偉大な事。
近代文明が幅をきかせるまでは 自然現象に根ざした手仕事や考え方というものが全てであったのでしょうし、それは 人から人へ丁寧に受け継がれていたのでしょう。
現在では近代化が進み、ある所では忘れられがちなのですが、古の心は日本人のDNAの中にしっかりと受け継がれているものであると思います…で、みみずくはそういったものが今でも随所で触れられる京都が好きなんですよね…
去年は京都と東京を行き来するという大変有り難い状況でした。あの時の思い出は今でもちっとも色褪せていません。楽しかったなぁ…
秋…紅葉と共に思い出す「味」…そろそろお芋の美味しい季節ですね…
いもぼう平野屋本家の 一子相伝「いもぼう」は美味しかったなぁ…うーむ…立山黒部の大自然から結局「食い気」に落ち着く…いかにも あおいみみずくらしいと言えますな^^;


去年撮った写真を引っ張り出してきました…見るだけで 思わずあの優しい味わいが思い出されてお腹が鳴ります。
お芋の中までしっかり染みた 甘めの味わい。京都の「薄味」も大変美味しいのですが、たまにはこうした少し濃いめの味付けも良いものです。
川端康成が「美味延年」と記している「いもぼう」は、海老芋と棒鱈を炊き上げた、京都で昔から食べられて来た名物料理です。
海老芋は京野菜の一つ 。海老のような縞模様がある 里芋の様な芋で、棒鱈は北海道の鱈をカチカチに乾燥させたものです。
海老芋の皮を厚く剥き、一週間以上 毎日氷水を変えながらでゆっくり芯まで戻した棒鱈を 一緒に一昼夜かけてゆっくりと炊きます。
一緒に炊くことで海老芋の灰汁が棒鱈を柔らかくし、棒鱈のニカワ質が芋の煮崩れを防ぐ…こういった素材の特性を活用し、素材が互いに助け合うといった所から「夫婦炊き」、また 北と南の食材を合わせることから「出会いもん」と呼ばれるそうです。
この「いもぼう」の味は代々書き残されたものはなく、技術と味の全てを「口伝」という一子相伝の形で伝えているのだとか…


ただ、ちょっとわからないのは、この「いもぼう平野屋」さんって、「平野屋本家」と「平野屋本店」と、円山公園の辺りに二件あるんですよね…?
同じ「いもぼう」を提供するお店なのですが、系列店1号、2号 って事でもないらしく、そこらへんはちょっと謎。まあ 色々な事情はさておいて お客さんは予約した場合には「本家」か「本店」か間違えない様に確認することが大事ですね。
今回 あおいみみずくが伺ったのは「本家」の方でした。
昔から伝わる素朴な煮物なので「洗練されたお洒落な味」…とはいかず、好き嫌いはあるのかもしれませんが、あおいみみずくにとっては「京都を思い出すと 必ずその味を思い出す」という味です。海老芋そのもののねっとり感がすごく好きだし!この食感は独特です。
夏の間は海老芋が採れない為、新小芋を使っているという事。
あおいみみずくとしては、ここは絶対 海老芋がオススメなので、秋から冬にかけての訪問の際に また訪れて しみじみ味わいたいと思います。

2014年11月10日月曜日

立山黒部アルペンルート 7 最終回〜黒部峡谷トロッコ電車編

さて、長々と書き連ねてきましたが、いよいよ立山黒部アルペンルート編 最終回!
旅行 最終日となりました。
室堂、弥陀ヶ原ハイキングでヘロヘロになった夜は宇奈月温泉に宿泊し、温泉でリフレッシュ。
下界に降りてきたので、ここで待望の日本酒を頂きました^_^
翌日、旅の最後はトロッコ電車に乗って黒部渓谷を走ります。
「トロッコ」とは、トンネルやダム等の工事現場からの土砂や石の運搬などに使用される貨車のことで、今回乗車するこの黒部峡谷鉄道のトロッコ電車は、黒部川電源開発の為の資材運搬用鉄道だったそうです。
そういう訳で、もともとは観光列車というつもりではなかったようですが、自然峡谷美を誇る秘境「黒部峡谷」探勝を希望する一般の人が絶えないため、やむを得ず…というスタンスで便乗の取り扱いをしていたそうです。当時の切符には生命の保障はしない旨の注意書きがあったとか…これまで事故が無くて何より‥^^;
現在では勿論 電源開発の職員さんや、資材の運搬もしているのですが、同時に観光トロッコも走らせていて、2009年5月からは 地元 富山県出身の室井滋さんの声で車内放送が流れています。
但し 自然環境の大変厳しい場所というのは当然ある訳で 積雪や雪崩等による被害の危険性が高い 冬期(12月〜4月中旬)は運休するようで、その間 なんと一部区間では線路や鉄橋が撤去され、トンネルの中に保管されるという事。
そんな所を現在では割と気軽に楽しめるなんて、有り難い事ですよね。


あおいみみずく達は、宇奈月駅から鐘釣駅まで トロッコ電車で車窓を楽しみながらの行程でしたが、実は釣鐘駅で とっておきの楽しみがあるのです。
それは「温泉」!
下の写真の様に、河原にお湯が沸き出ているのです!
川の水は冷たいのですが、傍らの沸き出す熱いお湯を混ぜ 自分好みの湯加減に調節し 囲いを作って足湯!
今回は自作の温泉で楽しみましたが、近くには野趣満点の露天風呂がちゃんと作られてあり、秘湯感満点!ただ あまりの野趣味満点感にあおいみみずくは さすがにちょっと…で、足湯だけ楽しませて頂きました。
こちらには温泉旅館もあるようで、ちょっと変わった旅行や温泉の好きな方は大いに楽しめるでしょうね^_^
で、一句

☆川原湯で足浸しつつ秋思かな

「秋思」というのは秋のころの物思いの事で、ちょっぴり寂しさを感じる言葉らしい…
寂しさ…はい!もの思ふ葦ならぬ「足」であります^^;


自然の空気と景色と温泉に癒されて、いよいよ旅も終わりです。
日常をかなり離れる事が出来、楽しませて頂きました。
あおいみみずくは 昨年秋は京都三昧で 歴史、文化にどっぷりと浸りましたが、今年は自然を満喫…いえいえ、せっかくの山ガール衣装を揃えたんですからね。まだ秋はもう少し残っているし、もう暫く あちこち出かけましょう…(って行っても一年経つのは速いですね〜)
立山も古からの歴史深く、大好きになりました。
人が想いを込めて作ったもの、守って来たものの素晴らしさもあり、大自然が何億年もかけて育んできたものもあり…今の時代はその両方を享受できますが 失いつつもあります。何とかして守っていきたいもにですね…そんな思いを強くした旅になりました。
最後の写真は、トロッコ電車がトンネルから出て来た所をキャッチしたものです。
ちょっとボケていますが、タイミングはバッチリでしょ♡
こうして見ると、おもちゃみたいですね。


最終回というのに感動的な言葉を書けませんが…本当に良い思いをさせて頂きました!
あおいみみずくは、膝痛・腰痛持ちで 偏頭痛持ち。おまけに日々のぐーたらが祟って体力もありません。そんな者が空気の薄い高地に行けるのだろうか…?と、かなり心配したのですが、思ったより元気に過ごす事が出来ました。
驚くべき事に、今回のツアーには92歳と88歳の方が参加されており、ハイキングには参加されませんでしたがアルペンルートはしっかり踏破されていました。
いくつになっても 前向きに 知らないもの 知らない事にチャレンジする…その姿勢は素晴しいですね。驚くと共に 感動しました。あおいみみずくも頑張ります!
この旅はとても心に残るものになり、全てに本当に感謝です!
ご一緒したぴょこぴょこちゃんにも感謝♡

これにて 終わり

2014年11月3日月曜日

立山黒部アルペンルート 6 〜弥陀が原編

天狗平のバス停からは少しの時間 バスに乗り、弥陀ヶ原ホテルへ。
こちらで昼食だったのですが とても美味しいステーキランチでした!
今回のツアー、なかなか食事が豪華です!
とても美味しいお肉だったので、本当はワインでも頂きたかったのですが、こちらは高地なので酔いが早く回るという事と、昼食後、さらに弥陀ヶ原湿原を1時間半ほどハイキングという事でしたので 断念しました。残念…
こちらのホテル、目の前には富山平野が広がり、晴れた日には富山湾のイカ釣り漁船の漁火が見える日もあるとか…
もちろん弥陀ヶ原湿原には 秋は草紅葉、初夏にはワタスゲが一面に咲くという事。星空もきっと綺麗でしょうね。うん、次来た時はこちらに泊まろうかな?


弥陀ヶ原高原は、標高約1600m〜2100m 南北2km 東西4kmに渡って広がっています。
ラムサール条約湿地に登録された 木道が敷かれた湿原には「餓鬼の田」と呼ばれる池塘が沢山点在しています。ラムサール条約の正式名称は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」といい、 湿原や干潟、湖などの湿地及びそこに生息・生育する動植物の保全を目的とした国際条約で、「立山弥陀ケ原・大日平」は日本国内では最も標高の高い所にある登録地となりました。
木道をゆっくり歩きます。これくらいの標高になると、ちらほら「木」も生えていて、また室堂とは全然違った情景。
この日はちょっと曇っていて少しモヤが出ていました。それがまた良い風情…


下の写真は「池塘」の写真です。
「池塘」とは湿原がつくられる過程で堆積(たいせき)した泥炭層のくぼ地にできた池です。
弥陀ケ原の池塘の深さは20cm〜30cmくらいで 池の中にミヤマホタルイやモウセンゴケなど高山植物が育っています。
この池塘の形状が苗を植えた水田に似ているという事で 地獄に落ちた亡者が飢えをしのぐため耕作している水田に例えられ「餓鬼の田」とも呼ばれているそうです。


こちらには40年ほど前まではおよそ3000もの餓鬼の田があったそうですが、年々減っていて、現在では約1000ヶ所にまで減少したそうです… 地球温暖化や酸性雨の影響かもしれないという事。土壌の酸性化により、針葉樹の立ち枯れが増え、地下水を養う森林の力が弱まり 年々乾燥化が進み、池塘の土手を固める苔も生えず 土手が崩れる度に水が抜けたり、隣の池塘と合体したりして9000年かけて形成されて来た池塘が僅か40年ほどで半分以上消えてしまったという事で…
影響は餓鬼の田だけでなく 周辺に生育していたヌマガヤなどが徐々に消え、替わってチシマザサなど乾燥した湿原でも育つ植物が急速に分布域を広げ 湿原は草原へと姿を変えつつあるようです。
長年にわたり培われて来た自然の形ですが、失われる時は一瞬です。
自分たちが生きている時代に 失われたもの 失われつつあるものが本当に沢山あります…

次回 立山黒部 最終回です